Slight ache
                

 午後遅くなってイワンの世話がやっと一段落したので、ジェロニモはふらり、と裏庭に出た。
遠くに見える山々がぽつぽつと赤や黄色に色づいて、心なしか吹く風もひんやりとしてきた。日差しは暖かく、見上げた空は
どこまでも青く澄み渡っていたが、雲の流れが速くなっているので、夜になったら雨が降るかもしれない、と思う。
ひと雨ごとに、冬の訪れが近づいてくる。その頃には自分も、この日本の地を後にして、故郷のアリゾナに戻っているはずだった。
そういえば、昼からハインリヒの姿が見えないことに気がつく。暇になったら散歩にでも行こうと、朝食の時に話していたので、少し探して
みる気になった。リビングには見当たらなかったし、自室にこもっている様子もなかったから、きっと離れにでも行ったのだろうと、広大な
庭の一角にある建物へと足を向けた。
思ったとおり入口には鍵がかかっておらず、大きな体を音もなく屋内へ滑り込ませる。薄暗い廊下の突き当たりにある居間のドアも開け
放したままになっていて、ハインリヒにしては珍しいことだと考える。
絨毯張りの床を踏みしめながら、ハインリヒ、と呼ぼうとして、ふと口をつぐむ。
勘の鋭いジェロニモにとって、この、得体のしれないものに侵入を拒まれているような、肌が粟立つ感覚は、珍しいものではなかったので、
内なる声の警告に従って、すぐさまその場を立ち去ろうとした。
だが、間に合わなかった。
一瞬で、その光景が目の中に焼き付いてしまったから。

西日がいっぱいに差し込む明るい室内の革張りの安楽椅子の上で、男が二人、絡み合っていた。
赤い後ろ髪を背もたれから覗かせた男の首に、色違いの2本の腕がしっかりと巻きついている。そんな腕の持ち主は、ジェロニモの知る限り
一人だけだ。こちらに仰のいた顔を向けて、胸と胸をあわせる形で男に抱かれ、その膝の上で乱暴に揺すり上げられているのは、ハインリヒ
だった。機械面が剥き出しになった膝を両方とも椅子の肘掛に引っ掛けられ、大きく開いた両脚の先で鉛色の爪先が不規則に揺れている。
荒々しく突き上げられる度に、濡れた唇から押し殺した悲鳴が漏れ、打ち振られるプラチナブロンドの髪が夕日を反射してきらきらと輝いた。
見てはいけない、と、頭の中で冷静な声がする。
それなのに瞬きをすることさえ忘れて、目の前の行為から視線を引きはがすことができない。
そして、荒い息の下から不自然なほどゆっくりと、ハインリヒが顔を上げた。
熱っぽく見開かれた虚ろな瞳が、ジェロニモの姿をとらえて凍りつく。
だが次の瞬間、ひときわ手ひどく突き上げられて、その体を大きく、しならせた。

先に視線を外したのはジェロニモの方だった。
素早く出ていく自分の背中を見つめたまま、ハインリヒが果てる気配がした。

皆がそろった夕食の席に、ハインリヒだけ少し遅れて現れた。食欲がないからと言ってキッチンでコーヒーだけ淹れると、早々と自室に引き
上げる。その間、一度もジェロニモの方を見ようとはせず、ジェロニモも自分から言葉をかけることができなかった。
先ほどの淫らさなど欠片も感じさせない静かな後ろ姿が、なぜか鋭くジェロニモの胸をえぐった。

やがて1週間程が過ぎ、ジェロニモの帰国の日が近づいていた。既にパッキングもほとんど終わり、殺風景な部屋のベッドにごろり、と横たわる。
もう日付が変わろうとする時刻だったが、どうにも目が冴えて眠れない。
原因は分かっていた。
目を閉じれば、あの時に見たハインリヒのあられもない肢体が脳裡に浮かぶ。自分とは、あんな風に、あんな姿勢で乱れたことなど一度も
なかったが、違う相手とならば、それも可能なのだ、と思う。そして、それ以上でもそれ以下でもないと、静かに納得する自分がいる。
もともと、はっきり何かを約束して始まった関係ではなかったから、ハインリヒが誰と何をしようと、自分が口をはさむような立場にないこと
は自覚していた。それなのに、あれからハインリヒとは何気ない会話さえ交わすことができなくなってしまった。自分から話しかけようとしても、
すっと白面を背けていなくなってしまう。頑なに向けられた背中には憎しみさえ漂っているように感じられて、ジェロニモはどうしたらいいのか
分からなかった。
もしかしたら、自分の方がハインリヒを憎むべきなのだろうか。
そうすれば、今までのような関係に戻れるのだろうか。
あんな姿を目にした後でさえ、不思議にハインリヒを厭わしく思う気持ちにはなれず、かえって今まで以上に触れたい気持ちは募るばかりだと
いうのに。

遠慮がちなノックの音に我に返った。普段にはない慌てた動作でドアを開けると、ジョーとフランソワーズが外出着を着こんで立っている。
「これからギルモア博士と一緒に、コズミ博士のところへ行ってくるよ」
そういえば、コズミ博士が数日前から体調を崩しているという話を思い出す。
「だいぶ、悪いのか」
「いや、ギルモア博士に言わせると、近隣の医者にかかりたくないというのが本音らしいよ」
ジョーの声に苦笑めいたものが交じる。
「何かお手伝いができると思うから、私も行くことにしたのよ。イワンも連れていくから、この家はあなたとハインリヒの二人だけになるけど」
そこまで言ってから、急にフランソワーズが小声になった。
「…ハインリヒの様子に気をつけてもらえないかしら。この頃、何だかおかしいの。食事もろくにしてくれないし…」
フランソワーズの顔に心底、気づかわしげな表情が浮かんでいて、ジェロニモは理由もなく彼女にすまないような気がしてくる。
「あぁ。ほかに何か、しておくことはないか」
「ありがとう、でも、だいじょうぶだと思うわ」
「悪いね、ジェロニモ。帰国前の忙しい時に。明日の夕方ぐらいには戻ってくるつもりだから」
やがて、車のエンジン音が遠ざかり、邸内に再び静寂が訪れた。

今度こそ完全に目が覚めて、ジェロニモは立ち上がった。眠れないのなら夜通し起きていようかと考える。
そうと決めればコーヒーが欲しくなって、スェットパンツの下だけ身につけた姿で、裸足のままキッチンへ向かった。
食器棚の脇にある間接照明だけを灯して、コーヒーメーカーの電源を入れようとした時だった。
「起きていたのか」
真っ暗なリビングから抑揚のない声を投げかけられ、驚いて顔をあげる。昼間と同じ、黒いタートルネックと黒っぽいズボンを身につけた
ハインリヒが、ゆらり、とソファにもたれてこちらを見つめていた。ベッドに入った形跡はなく、闇の中に白っぽく浮かんで見える顔は、
心なしかやつれて見えた。
「あぁ」
普段どおりの声を出せたことに安堵しながら、ジェロニモは何気なく言葉をつないだ。
「フランソワーズが、お前のことを、心配していた」
途端に、つかつかと近づいてくるハインリヒのシルエットが、怒りでぐっと膨らんだように思えた。
「心配って何のことだ」
よけいなことを言わなければよかったと思いつつ、静かに返す。
「何もなければ、別にいい」
「あるわけがないさ。俺を避けているのはあんたの方じゃないか」
思わずジェロニモは眼を剥いた。どうしてそういう理屈になるのか、さっぱり分からない。
「話したくないのかと思って、黙っていただけだ」
「そうじゃないだろう。あんたは俺がいやになったんだ。隠さなくたっていい。…当然のことだからな!」
「ハインリヒ」
そこから先は、聞きたくなかった。聞けば平静ではいられなくなってしまう。
ハインリヒの眼が異様に光った。彼がこういう顔つきになってしまったら、もう黙らせることなどできはしない。
「なぜだ。あんなにしっかり見ていたじゃないか。どうして途中で逃げたりしたんだ…?素っ裸で野郎にしがみついて、大股開きだ。
さぞかし軽蔑しただろうな。」
違う、と大声で言いたいのに、何かがジェロニモの言葉をせき止めている。音にならない感情が、奔流のように体内で荒れ狂う。
自分が何をしようとしているのか分からないまま、ジェロニモはハインリヒの肩を強く掴んだ。
「気やすくさわらないでくれっ」
驚くほど邪険に振り払われ、はずみでハインリヒの鋼鉄の右手がジェロニモの頬骨に激しくあたった。
わざとでないことは分かっていたし、ジェロニモにとってはかすった程度の痛みに過ぎなかった。
それでも瞬時に噴き上がった怒りは、戦闘中にさえ感じたことのないほどのものだった。
気がつけばハインリヒの体を力任せに床の上に引きずり倒していた。その両手首に万力のような指を食いこませ、ばたつく脚の上に両膝を
乗り上げる。至近距離で見下ろしたハインリヒの紅潮した顔に燃えるような怒りを読み取り、不意に引き寄せられる衝動に駆られて、顔を
押し付け冷たい耳朶に唇が触れるほど近くで囁く言葉を流し込む。
「ジェットなら、いいのか」
己の唇から滴り落ちた毒に自分自身が煽られて、最後の理性が吹き飛んだ。
そのまま、タートルネックを引き裂くようにまくりあげ、火がついたように暴れる体を自分の下に敷きこんで、下着ごと一気にズボンを剥ぎ取った。
ほとんど露わになった肢体を波打たせながら、ハインリヒが必死に両腕を突っ張って、ジェロニモの重い肩を押しのけようとする。
ジェロニモは体ごと圧し掛かっていきながらハインリヒの震える太腿を割り開き、岩のような全体重をかけて、その両脚の間に入り込もうとする。
無言のまま互いに激しく争いながら、最初から勝敗は明らかだった。
程なく探り当てた一点に、ジェロニモが己の先端を押し当てる。頑強な抵抗にいつしか意地になり、上から無理やり押し開いていくにつれて、
ハインリヒの呼吸が絶望的に速まり、ある地点を突き抜けた瞬間、ほとばしるような絶叫に変わった。
ハインリヒの、苦痛だけを訴える喘ぎが、ジェロニモの耳を打つ。
それでも、ここまで来たら行きつくところまで行くしかないと本能的に知っていて、ジェロニモは両眼を頑なに閉じるとハインリヒの内部を感じる
ことだけに意識を集中しようとした。
熱く乾いたその場所に痛みを感じるほどきつく締めつけられて、押すことも引くこともできない状態になると、それ以上、体を進めることをせずに、
両腕をハインリヒの背中にまわして不器用に抱きしめた。
もう、込み上げてくるのは怒りではない。
思うままに突き上げたい衝動をこらえるのは酷く辛かったが、また、あんな声をあげさせたくなかった。
ハインリヒが低く呻いて、わずかに腰を浮かせる。
直後に吸い込まれていくような強い快感が一転して身の内を大きく揺さぶる波に変わり、ジェロニモは覚えず、詰めていた息を小さく、何度も吐いた。

体が、泥のように、重い。
最後の一滴まで欲望を吐き出した後の、途方もない倦怠感は、ジェロニモにとって初めて経験するものだった。そして己の欲望のままに、
力ずくで誰かを自分のものにしたことも。さっきまで全身をひたしていた、痺れるような満足感が反転し、吐き気がするほどのどす黒い罪悪感が
込み上げる。ジェロニモはただ茫然と、汗ばんだ体を投げ出していた。

腕の中のハインリヒが、うっすらと目を開く。
拒まれるかもしれない、と思いつく前に、おずおずと抱き寄せていた。
額に乱れ散った前髪を指で梳いてやると、黙って、されるままになっている。床に放り出された右腕が、キッチンの灯りを反射して鈍く光っている。
何事もなかったように静まり返った空気を乱すのが怖くて、脳内通信に言葉をのせた。
“大丈夫か…?”
しばらくしてから、頭の中にぽつり、と返事が返ってきた。
“……大丈夫だ”
それから、
 “…そんなに、やわな体じゃない。気にするな…”
思わず、胸の中のハインリヒをしっかりと抱えなおす。
ジェロニモの強化された人工心臓が厚い胸板の奥で激しく脈打っている。何か大きなものが喉もとにせり上がってきて、息をするのが苦しかった。
こんなにハインリヒが弱っている状態ではなかったら、大きく肩を揺さぶって問いかけたかった。自分が、何をしたか、ということを。
  「…すまない…」
ようやく絞り出した声は、自分のものではないみたいに、ひどく嗄れていた。

ハインリヒが無言で睫毛を伏せる。
わずかな間があって、整った鼻梁の下の薄い唇が、細く、息を吐く。
「俺の方こそ、悪かった」
けだるくまぶたを引き上げて、ジェロニモの瞳をじっと見つめ返す。
「…あんたを傷つけた」
短い沈黙のあと、言い直した。
「傷つけたかったんだ」
その白い顔に、悲しみとも哀れみともつかない、奇妙な表情が浮かび上がるのを、ジェロニモは見ていた。
―どうして、だろうな…。
ハインリヒの呟きが、音の響きだけを残して、ジェロニモの背後の暗闇にひっそりと漂い、消えていった。

   ジェロニモは、もう何も言わずに、ハインリヒの両手をとってそっと自分の首に巻きつけた。
  ハインリヒが回した両腕に、ほんのわずかに力をこめる。
  いつのまにか降り出していた雨の音を聞きながら、しばらく、そうして2人は抱き合っていた。

 


Slight ache(2008.10)

ジェロさんを悩ませる魔性のハインさんです。
お愉しみくださいませ〜
sh様!ありがとうございます!

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