Whale Watching
                

 ボストンに到着後、2日目。
クジラを見たい、と言ったのはハインリヒだった。
勿論、ジェロニモに異存があるわけもなく、二人そろって “ホェールウォッチングツアー”に参加することにした。

眩しいほどに晴れた青空を仰いで、今日はいい日になりそうだ、と浮き浮きしたのも束の間、ツアー参加者の集合場所である水族館までやって来て、
秘かにハインリヒは蒼ざめた。
ツアー参加者が自分たちだけではないということを忘れていたからだ。
平日だというのに、この盛況ぶりはどうだ。
何かのイベントがらみなのかもしれないが、幼児を抱いた家族連れや、教師に引率された小学生のグループが妙に多い。ちらほらと混じっているのは、
いかにもリタイア後の老夫婦や、身軽なバックパッカーの若者達だ。
そんな中で、若いことには若いが妙に落ち着いて見える男二人連れは、ただでさえ場違いだった。
しかも一人はモヒカン刈に刺青まで施した目つきの鋭い巨漢、もう一人は陽光きらめく季節だというのに黒ずくめの服装で片手に手袋まではめた、
抜けるように色の白いヨーロッパ人である。
一種異様なオーラを発している二人へ、人々の視線が一斉に集まった。
中でも子供は正直だ。
のしのしと通り過ぎるジェロニモを恐怖のまなざしで見上げていた幼児が突然、ぎゃ〜っと声を限りに泣き出した。
泣き声が次々に周囲の幼児達に伝染し、和やかな一団の雰囲気が一転して修羅場と化す。
だが、ターミネーターよろしく無表情に周囲を見渡したジェロニモが、にこり、と白い歯をのぞかせると、ぐずぐずと子供たちが泣きやんだ。
ほっと胸を撫で下ろすハインリヒだが、自分の方も大人達から好奇の視線を浴びせられていることが分かっていて落ち着かない。ただでさえ珍しい
髪に瞳の色である。チケットを買った時にもらった観光ガイドのページを無意味にめくりながら、自分達も単なる旅行者であることをさりげなく
アピール(実際にそうだ)するハインリヒだったが、内心は穏やかではなかった。
それほど乗り気でもなさそうに見えたジェロニモを、無理やり注目の的にさせてしまったようで気が咎める。

そんなことにも構わず、のんびりと浮かんでいる船を見て、再びハインリヒは凍りついた。
予想よりも、はるかに小さい船だったからだ。
これだけの人数を乗せて、果たして浮かんでいられるのだろうか、という疑問が湧く。
しかも、ジェロニモの体重は280kg。平均的な成人男性の、軽く4倍近くはある。
「あれー、今日は特別、船が重たい感じがしますね〜!なかなかスピードが出ないなぁ〜!!」
能天気に流れる船内スピーカーの声に、ハインリヒは頭を抱えたい気分になる。
だが、乗ってしまったものはしょうがないのである。アナウンスの声が確実に耳に届いているに違いないのに、表情ひとつ変えないジェロニモを見上げて、
まぁいいか、とハインリヒも開き直る。

船のてっぺんには大型のメガフォンを抱えたツアーガイドがいて、クジラが現れた時に教えてくれることになっていた。
「時計の文字盤を上から見た感じですよぉー皆さん!!船の進行方向が『12』!進行方向に向かって、まっすぐ右だったら『3』!後は『6』!
では、左はぁ!?皆さん、何だと思いますか〜?!」
ナイン!!と力いっぱい叫ぶ善男善女に混じって、小さくではあるがしっかりと唇を動かしたハインリヒを目の隅にみとめて、ジェロニモがちらり、と微笑む。

顔にあたる潮風が気持ち良くて、ハインリヒは甲板の手すりに持たれたまま、目を細めていた。
少し白い波はたっているが、概ね、海は穏やかだ。
真っ青な空の色が水平線に近くなっていくにつれてぼやけていき、やがて透きとおっていくように見える。その境界線辺りが不思議に心もとない。
どうして、ジェロニモは甲板に上がってこないのだろう、と訝しく思いながら振り向いて、ハインリヒは思わず微笑んだ。
手すりから奥まった背後のベンチに、いつのまにかジェロニモが座っていたからだ。
「ジェロニモ…」
言いかけたハインリヒとジェロニモの間を、突然、ばたばたと小学生とおぼしき子供たちが歓声をあげながら駆け抜けていく。どうやら、誰が最初に
勇気を出して、いかにも恐ろしげな外見のジェロニモの前を横切るかどうかで、もめていたらしい。
「…子供ってのは、どうして走り回るんだろうな」
苦笑しながら呟くハインリヒを見て、ジェロニモが何も言わずに口元をほころばせる。
「お前さんも、ここにきて海を見たらいいじゃないか」
ハインリヒの言葉に、ジェロニモが頷いて、のっそり立ち上がると、ハインリヒの隣の手すりに静かに片手を乗せた。
潮風の中で、しん、と動かないジェロニモの横顔は穏やかに寛いでいて、けれども何か声をかけにくいような瞑想的な雰囲気に満ちている。
どうしてか、後ろめたい気持ちのするハインリヒだった。

そのまま、ぽつり、ぽつりと言葉を交わしながら40分ほど過ぎたが、まだクジラは現れない。
ひとつ欠伸をして、ハインリヒが提案した。
「コーヒーでも飲まないか」
「そうだな」
「俺が買ってこよう」
ジェロニモの返事を待たずに、身軽くハインリヒが、船内へと続くドアを開ける。
プラスチック製の椅子と机がずらりと並んだ展望室の内部は、ほっと気が抜けるような暖かさだった。天気がよくても、甲板の上にずっといたために、
知らないうちに体が冷えていたのだろう。ちらりと目をやると、後ろの方では既に青息吐息で船酔いに耐えている何人かが座り込んでいて、気の毒だな、と思う。
売店でホットコーヒーのカップを2つ、紙のトレイに入れてもらって、ついでに出来心で湯気のたつホットドッグを2つ買った。行儀が悪いと分かっていて、
歩きながらかぶりつき、たちまち後悔する。パンはべちゃべちゃでソーセージは魚肉とおぼしき味がした。
「美味しいだろう!?」
すぐ近くに座っていた初老のアメリカ人男性に強い南部訛りで屈託なく声をかけられ、曖昧に笑顔を返しつつ、コーヒーで残りを流し込む。やっぱりドイツの
食べ物の方が美味しいと腹の底から確信しつつ、こんな場所での国際紛争は避けたい。
「待たせたな」
ベンチに座っていたジェロニモに、コーヒーとホットドッグを手渡した。
「ありがとう」
嬉しそうに受け取ったジェロニモに、一応忠告してやろうと、ハインリヒは口を開く。
「コーヒーはまぁまぁだが…」
だがジェロニモが、あむ、あむ、と二口で問題ありのホットドッグを片付けてしまったので、それ以上は何も言わないことにする。
ハインリヒと違って、ジェロニモは食べ物に好みというものが、ほとんど無い。
そして食べ方がきれいで、とても速い。

その時、
「皆さぁん!!クジラが『3時』の方向に現れましたよ〜っ!!」
待ちに待ったガイドの弾んだ声が響きわたった。
船中の人間とサイボーグ2体が、どたどたと右舷に駆け寄る。
次の瞬間、極端に右側に重さが集中したおかげで、船がシーソーのように右側に大きく傾いて、今にもひっくり返りそうに揺れた。
「わぁ〜っ!!」
ガイドと客たちのわめき声が耳を圧し、ギャグ漫画のような状況に、ハインリヒは眩暈を覚える。しかも揺れはおさまらず、右側の手すりがじりじりと極限まで
海面に近づいていくばかりなのだ。
原因は分かっていた。
太い両腕で手すりを抱え込み、ハインリヒの隣で、一心不乱に海面に目をこらしている…。
「お、おい、ジェロニモ」
ハインリヒが小声で話しかけるよりも早く、メガフォンの音声が大音量でこだました。
「そこの大きい人!!ちょっと後ろに下がって下さい!そう、その、モヒカン刈りの方です!!」
思わず、ぎろりとターゲットアイを閃かせて、ハインリヒは頭上のガイドを睨みつける。
だが、彼が言うことも、もっともなので仕方がない。
固まったジェロニモがうつむいて、おとなしく、のろのろと後ずさる。
たっぷん、とのんきな音をたてて、船が水平に戻った。
「ミンククジラ、2頭いるのが見えますか?!ちょっと海面に薄緑色に見える部分が背中ですよー!」
誇らしげなガイドの声に、歓声が上がる。

何と声をかけたらいいのか分からなくて、ハインリヒはジェロニモの隣にそっと腰を下ろした。相変わらず無表情な顔が心なしか元気をなくしているようで、
胸が痛んだ。
「ジェロニモ…」
だが顔を上げたジェロニモは、いつもの穏やかな目の色で、ハインリヒの顔を覗き込んだ。
「俺はいい。俺の分も、お前に見てほしい」
気にするな、と小さくえくぼを刻まれて、わずかに心が軽くなるのをハインリヒは感じた。

それからはクジラ側の方で大サービスという感じだった。
「『2時』です!!『2時』の方向です!!」
「あー、あれは親子ですね!お母さんクジラと子どもクジラです!!『7時』の方角ですよ〜!」
ジェロニモに悪いと思いつつ、気がつけばその他大勢と一緒に、ハインリヒも忙しく船内を駆け回っていた。
手を伸ばせば触れられそうな水面を、クジラの背びれが悠々と横切る。
ゆっくりと水面を切り分けて進んでいく巨体に、どうしてこんなにわくわくしてしまうのだろうか。

一息ついてから、急にジェロニモのことが気になった。
駆け足でベンチのところまで戻ると、さっきと同じ姿勢でジェロニモが座っていた。船の揺れに泰然と身をまかせて、やっぱりどこか近寄りがたい空気を
漂わせている。 
ふと、ジェロニモの表情が変わった。
隆起した眉間の間にしわを寄せ、一心に耳を澄ませているようだ。
「また来ましたよぉ〜!『10時』の方向でーす!!」
ガイドの声とともに、どどどっと人々が左舷へ突進する。
「行こう!」
素早く、ジェロニモの大きな手がハインリヒの手を握った。
自分たちも左舷に向かうと思いきや、迷いのない足取りで人気のない右舷後方へと向かう。
「左じゃないのか?」
息せき切って問いかけるハインリヒに、
「大丈夫」
頭の上から自信ありげな声が降ってくる。
半ばハインリヒを片手でさらうようにして、ガイドが言ったのとは正反対の方角、『5時』の方向へと、足早にジェロニモが向かっていく。

息をきらせて立ち止まり、右舷後方に二人並んでしばらくすると、目の前で海が、音もなく盛り上がりはじめた。

徐々に空中高くなっていったそれが、次第に真っ黒な形を成していく。

ざぁざぁと流れおちる水しぶきとともに、海面を割って空中に突き出されたのは、巨大なクジラの頭だった。
それまでに見た、どのクジラよりも大きい。
声をあげるのも忘れて、ハインリヒは目を見開いた。
まるでスローモーションのように黒々と光る半身を空中に踊らせたかと思うと、ザッパーンッという轟音とともに、激しく背面を水面に打ち付ける。
衝撃に足元が揺れた。
派手に飛んだ水しぶきが二人の上に降りかかる。
「おーっと!!なんと、後方にマッコウクジラだ!!これは大きいぞ!!」
ガイドの混乱しきった大声が小気味よかった。
海水を浴びたジェロニモの横顔が、逆光線の中できらきらと輝いている。

押し寄せてくる人々の波とは逆方向へゆっくりと戻っていきながら、ジェロニモとハインリヒは、ひっそりと笑みを交わした。
「お前さん、どうして分かったんだ?」
湿った前髪をかきあげてハインリヒが問いかけると、ジェロニモが、
「分からん」
と、簡潔に言った。

昼近くなっても海の上の気温は上がらない。初夏とはいえ、少しでも日が陰ると、まだまだ肌寒く、帰路に就く船の中では、乗客のほとんどが展望室の
中へと引き上げていた。
ガイドの役目も終わったらしい。
先程までの喧噪が嘘のように静まり返った甲板に残って、二人は黙ったまま、並んで海を眺めていた。
まだ興奮で胸の中が熱い。
「最後に見た、あのクジラ…」
もしや、と思い続けていたことをハインリヒは口にする。
「お前さんが呼んだのか…?」
「俺に、そんなことはできない」
すかさずジェロニモが言った。
「そうだろうな」
ハインリヒがぼんやりと相槌を打つ。
ジェロニモの受けた改造手術に、さすがに動物と話す能力は含まれていないだろう。
「ただ…」
ジェロニモがためらいがちに口を開いた。
「なんだ」
「歩いていると、動物が寄ってくる、ことはある。犬とか、小鳥や…猫も…」
「だからといって、マッコウクジラは、ないだろう…!?」
くっくっと笑いはじめたハインリヒの顔を見て、ジェロニモは口をつぐんだ。

本当は、こんな風に笑うハインリヒが見たかっただけなのだ。

こっそり胸の中で呟くと、ジェロニモはクジラの精霊たちへ、心からの感謝を捧げた。
 

Whale Watching(2009.07)
今年もひっそり祭にご参加ありがとうございます!
平和なひとときを過ごす54をsh様より頂戴いたしましたvv

こちらの事情でアップがだいぶ遅れてしまいました。
申し訳ございませんでした(泣)
どうぞご堪能ください!
sh様ありがとうございました!

sh様は大いに読み応えある作品が揃っております水の中のナイフ (ブログ)を立ち上げられました!
是非是非、お運びくださいませvv

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