tea break
午後のお茶の習慣を持ち込んだのは英国人のグレートだが、だからといって彼が人数分のお茶を用意するわけではない。
なにしろ総勢で9人、ギルモア博士を含めれば10人だ。少ない時でも5〜6人は常に滞在している。それぞれの好みの
飲み物を準備するだけでも、ひと仕事だし、しかも同じ時刻にサーブするとなれば、至難の業だった。この邸は部屋数の
多さが災いして、キッチンのスペースはそれほど広くない。一度に入ることが出来る人数は限られている。
必然的に、仲間の中で唯一の女性であるフランソワーズが、使命感と一種の高揚感でもって、この役目に臨むようになった。
彼女を手伝うのはジェロニモだ。子供の頃から、台所の手伝いをするのは、彼にとって当たり前のことだった。大きな体に
似合わず、手先が器用で動作も静かだ。口数は少ないけれど、頼まれた以上のことをやってくれる。
イワンに温めた哺乳瓶以外の選択肢はあり得ない。ギルモア博士と、ジェット、ジョー、ピュンマの若者3人組はコーヒー党
だが、飲み方はそれぞれ違う。博士は自身の年齢を考慮してミルクと砂糖抜きのコーヒーを味わっている。ジョーはミルク
しか入れないが、ジェットはミルクと砂糖のどちらもたっぷりで、しかも口が悪いハインリヒに言わせれば「雑巾水みたいに」
薄い色のコーヒーしか飲めなかった。ピュンマはエスプレッソに目がない。時間があれば、専用の道具まで使って丁寧に
マキアートを泡立てている。
グレートが紅茶を所望するのは言うまでもないことだが、意外なことに、普段はティーバッグを愛用していた。ロンドンに
里帰りする度、ブルックボンドの商品を山のように買い込んでくる。ただし沸騰したての湯を使うこと、湯を注いだ後は
きっかり3分間蒸らすこと、飲む直前にちょっぴりミルクを垂らすこと、という三原則は決して譲らない。
張大人が、午後4時にリビングへやってくることは滅多になかった。その頃には中華街の自分の店で材料の仕込みにかかって
いるからだ。ごくたまに居合わせた時は、ガラス製の容器に一掴み、店で使っている中国産の緑茶を放り込んで湯を注ぎ、
蓋についた金具でふよふよと漂う茶葉を底へ押し下げてから、中身を小さな陶器の器についで何杯も飲んでいる。
ハインリヒは、といえば、その時の気分によってコーヒーだったり紅茶だったりする。コーヒーにはミルクを入れるが、
紅茶には何も入れない。
フランソワーズは花の香りのついた紅茶が好きだ。ジョーが手当たり次第にプレゼントしてくれる可愛らしいパッケージの
ティーバッグをせっせと消費にかかっている。
ジェロニモ本人は実のところ、冷たい水でも構わないのだが、フランソワーズが買ってきてくれるハーブティーを飲まされている。
ブレンドした薬草の匂いに胡椒のような独特の風味が加わっていて、なかなか悪くない。
その日、リビングに顔を揃えていたのは、ジョーとジェット、グレートにハインリヒの4人だった
フランソワーズが、ぐずるイワンの世話で子供部屋に行ってしまったので、ジェロニモが一人で準備した。皆の飲み物を出して
しまってから、市販の甘いビスケットと、手作りのスコーンにクロテッドクリームを添えて皿に並べ、最後に自分用のお茶を淹れ
ようとしたところで、湯が足りないことに気がついた。
日本製の電気ポットを使うまでもないと思ったから、ぴかぴかに磨いてあるケトルに少量の水を足して火にかけた。
開け放したドアから、リビングのさざめきが伝わってくる。聞こえてくるのはジェットとグレートの声ばかりだ。たまにジョーの
笑い声が混じる。
ハインリヒの声は、届いてこない ――。
いつの間にか、一心に耳をそばだてている自分に気がついて、ジェロニモは小さく息をつく。
同じ屋根の下で暮らしているのに、ハインリヒと行き会う時間は、ごくわずかだった。
朝食の後片付けがすんで、やっとテーブルを挟んで向かい合っても、ティーカップを片手にグレートがやってくる。歯切れのよい
お喋りに耳を傾けているうちに、ハインリヒが積極的に会話に参加し始めて、ジェロニモは、邪魔にならないよう、そっと席をたつ。
散歩から帰って来るハインリヒと、偶然、玄関で顔を合わせても、ジェロニモはフランソワーズに頼まれてイワンの粉ミルクを買い
に出るところだ。一緒に行かないか、と勇気を出して声をかけようとした矢先、ジョーが満面の笑みを浮かべて飛んでくる。車の
整備のことで、ハインリヒに相談があるらしい。楽しそうに車庫の方向へ向かって歩み去っていく二人を尻目に、ジェロニモは
ポケットの中の買い物メモを握り締めるしかない。
誰もいない時を見計らってハインリヒの部屋のドアをノックしてみようか、とも思ったが、呼ばれてもいないのに訪ねていくのは
気がひけた。もともと、この家で、互いの部屋を行き来するほどの親密な関係を築いているのは、ジョーとフランソワーズだけだ。
彼らは、恋人同士なのだから。
ジェロニモが、ハインリヒと体を重ねるようになってから随分と経つけれど、仲間に打ち明けるべきだと思ったことはない。恐らく
イワンとフランソワーズには見抜かれているだろうし――子供と女性の目は誤魔化せない ――ある意味、ジェロニモは誰よりも
個人主義者だった。知るべきことかどうか判断するのは、相手にまかせればいい。その上で、どう思われようとも構わない。
ハインリヒは違うらしい。
お前と特別な関係を結んでいることが、他の仲間に対する裏切り行為みたいに思えると告白されて、呆気にとられたことがある。
まさしく、その時、ジェロニモはハインリヒを組み敷いて、“特別な関係”を結んでいる最中だったのだが。
ピィーッと、小さなケトルが、短気な口笛を吹き上げた。
ぴく、とジェロニモは首をすくめる。反射的に火をとめたところで、キッチンの入口に影が差した。
「ジェロニモ、お前さんも早く来ないか?」
ハインリヒだ。育ちのいい足音をたてて、近づいてくる。
「…そいつは、俺が持っていってやろう」
すい、とテーブルの上に目をやって、菓子の並んだ皿に手を伸ばそうとした。
「いや、俺が、自分で」
途中でジェロニモは、言葉を切る。
今日のハインリヒは珍しく、黒いタートルネックの代わりに、V字型に襟ぐりの開いた薄手のニットを着ていた。色は柔らかなグリーンだ。
すべすべとした素材に吸い寄せられるようにして、ジェロニモは一歩、前へ出た。いかにも手触りがよさそうで、思わず触れてみたく
なったのだが、そのまま体が動かなくなった。
触れれば、抱き締めてしまいたくなる。抱いてしまえば、離せなくなる。
数歩離れたリビングでは、仲間たちが陽気に騒いでいるから、ジェロニモは動けない。ただ、黙ってケトルの丸い蓋に目を落とす。
「遠慮するなよ。これでも、気にしていたんだ。あいつらときたら世話を焼かせる一方だからな」
顎をリビングへ向かってしゃくるようにしながら、ハインリヒが少々横柄な言い方をしてみせる。まるで自分がサイボーグ達の中で
一番年上ででもあるかのような口ぶりだ。実際、最年長者はグレートだが。
返事をしないジェロニモを、ハインリヒが見上げる。
その白い首すじに、じっくりと舌を這わせた刹那の記憶を、無理やりジェロニモは頭の奥へ仕舞い込もうとする。
「悪いな」
沈黙をどう受け取ったのか、皿の縁に金属の指をかけたまま、ぽつり、とハインリヒが呟いた。訝しげなジェロニモの視線に顔を上げる。
「…お前とフランソワーズの二人だけに台所仕事をさせていることさ。今度から当番制にしようと思うんだが」
ハインリヒの表情は真剣だ。恐らく、ずっと前から考え続けていたことなのかもしれなかった。
「別に、悪いことは、ない」
本当にそう思っているから口に出したまでだが、益々、ハインリヒが顔をしかめた。
「いや、こんなのは不公平だ…!」
やや大きめの口が、きっぱりと断言する。
ハインリヒなら、きっとやり遂げてしまうだろう。
綿密な当番表を作成し、気の進まない仲間を説き伏せ、時には脅して、最後には言うことをきかせてしまうに違いない。
だが、それはジェロニモの本意とするところではなかった。自分がやりたくてやっていることだし、何よりフランソワーズが承知しない
だろう。甲斐甲斐しく皆の世話を焼くことが、この優しい少女にとって数少ない楽しみの一つなのだということを、ジェロニモは見抜いて
いた。それを取り上げることは、したくない。
一瞬で頭の中が切り替わり、気がついたら口走っていた。
「これは、俺と、フランソワーズの、問題だ」
だから、自分達が不公平と感じていないなら、それでいい。
そう続けようとして、ジェロニモは口ごもった。
ハインリヒの顔色がわずかに白くなり、すっと視線が狭まったように感じたからだ。
明らかに腹を立てている。
どうしてだ、とうろたえる傍から、 「別にお前さん達の邪魔をするつもりはないんだ…。気に障ったんだったら忘れてくれ」
冷たい声が返ってきた。
――なにか、とんでもない風に誤解をされている。
やっと気づいた頃には、ハインリヒは出て行こうとしていた。
スコーンもビスケットも置き去りにして。
「待ってくれ」
無意識に体が動いた。ジェロニモの巨体は爆発的なパワーだけでなく、瞬発力と柔軟性も備えている。その気になれば、かなり敏捷に動く
ことも出来る。
キッチンの出口に素早く立って、ハインリヒの退路を塞いだ。
表情を消したハインリヒの顔を見下ろした途端、言おうとしていたことは跡かたもなく吹き飛んで――。
「今夜、二人で、会えないか?」
喘ぐような声は、自分のものではないようだった。
それほどに切羽詰っていたのだと、ぼんやり思い当たって下を向いた。
ハインリヒが大きく目を見開いて、それから、ふっと苦笑を浮かべる気配がした。
突然、顎と首の境目の皮膚に、乾いた温かいものが触れた。
伸び上がってきたハインリヒの唇だと分かって、ジェロニモは背すじを震わせる。
「明け方に、森で」
低く耳元で囁かれた。
時々、ハインリヒは、思い切ったことをする。
仲間に知られることを、誰よりも恐れているくせに、誰に見られるかも分からないこんな場所で、無防備に身を投げ出してくる――。
あぁ、と小さく顎を引いて、瞬間、ハインリヒに伝わっただろうかと不安になる。
だが口を開く暇はなかった。痺れを切らしたジェット達が、狭いキッチンになだれ込んできたからだ。
「ハインリヒ!ジェロニモ!クッキーはまだかよ?!」
元気よく叫んだジェットに向かって、グレートが、立てた人差し指をもったいぶって振ってみせる。
「こらこら、ビスケットと言ってくれたまえよ?」
「クッキーもビスケットも同じじゃねぇか!」
「いいや、違う!」
睨み合ったイギリス人とアメリカ人を見比べて、ジョーが無邪気に問いかける。
「何が違うんだい?グレート。僕にはどっちも同じに思えるけど」
ハインリヒがうんざりした面持ちで首を振った。
「今、リビングに持っていこうとしていたんだ…。子供でもあるまいし、少しぐらい待てないのか」
待てない、待てない、と口ぐちに喚きだす男たちを前に、ハインリヒが腕を組み、ちらりとジェロニモを見上げて笑った。
いたずらっぽい笑みは、ハインリヒがジェロニモだけに見せるものだ。
「待っているから、必ず来てくれ」
それだけ言い残すと、戦利品を手に飛び出していった仲間達を追って、すたすたと歩き去った。
リビングで待っているということなのか、あるいは、もっと先の時間のことを言っているのか――。
不規則に心臓が高鳴っている。
鼓動が重たい体を突き破って、外まで聞こえてしまうかと思うほどに。
ぶ厚い片手で、そっと胸を押さえる。
静かになったキッチンで、ジェロニモはケトルを手に取った。
そういえば、と思い出す。ハインリヒもあれで結構、人の世話を焼くのが好きなのだ。今度、フランソワーズとハインリヒの3人で、
お茶の支度をしてもいいな、と思う。
マグカップに渡した小さな茶漉しの上に、煮えたぎった湯を、何度もゆっくりと回しかける。
一瞬、ふわっと膨らんだ細かな茶葉から褐色の液体が滴る音を聞きながら、ジェロニモの浅黒い顔には独りでに、控えめな微笑が
浮かんでいるのだった。
tea break(2012.12)
以前54でお題にチャレンジした時のこちらの服をハインさんが着用して、
こちらのお話の中に登場しております。ありがたいことです。
甘い54でお茶何杯もイケます。御馳走様です!(感涙)本当にありがとうございます!!
毎度のことですみません。アップがだいぶ遅れてしまいました。
アップのお願いをしたのは初夏でございました・・・・(遠い目)
お茶の時間を楽しむサイボーグ達に癒されます。
sh様ありがとうございました!
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