そまびと―杣人―
「倒れるぞ!!」
いつもの号令が、奥深い山中にこだまする。ジェロニモは慣れた様子で、かたわらに大木が倒れ込み、もうもうと木ぎれが
立ち上ってくるさまを、額に流れる汗をぬぐいもせずに見つめていた。
現在ではこの業界もチェーンソーやハーベスタなどの機械化が普及しているが、ジェロニモはいまだに昔ながらの斧を振る
っている。回りからは賞讃半分、嘲笑半分の声が上がっているが、ジェロニモは気にしない。せめて、自分の作業くらいは
自分の手で行いたいからだ。たとえその手そのものが機械仕掛けであったとしても、だれもが驚くその怪力がそのおかげで
あったとしても。
「よし、今日はこれまでにしよう。」
親方の合図で、ジェロニモを含む木こりたちは、今日一日自分たちが切り倒した大木の群れを一望した。明日からは玉切り
(枝を落とし木を運びやすい長さに切り分けること)ののちに、丸太を山道へ引き出す作業が待っている。それが済めば、
いったん休暇に入る予定になっていた。
若く、力も有り、無駄口を叩かず、的確に仕事に励む、今どきで言えば珍しい部類に入るジェロニモは、木こり仲間から
重宝されていた。その真面目な仕事ぶりは、彼の出自とその外見から来る偏見と、彼自身の性格から来るとっつきにくさ
―有り体に言えば付き合いの悪さ―とを補ってあまりある効果を発揮していた。
他の皆はふもとの町からの通いだが、ジェロニモは一人、山奥の小屋に住んでいた。その暮らしぶりも、仲間にジェロニモ
をある種の奇異の対象としていることも間違いではなかったが、ジェロニモは町に住む気はさらさら無かった。
「じゃあな、ジェロニモ!」
「また明日。」
「あぁ。皆も気を付けて。」
皆を見送った目で空を仰げば、燃えるような夕日がロッキーの針山のような針葉樹の森に刺さっていた。ジェロニモも夕日で
背中を染めながら、自らのねぐらに引き揚げることにした。その目には、来たるべき休暇に備えて、隠しきれない期待の色が
浮かんでいた。今度の休暇は特別だった。なぜなら、ハインリヒがジェロニモを訪ねてくれることになっていたからだ。
「すまないな。空港までわざわざ出迎えてくれて。」
「それはこっちの言うセリフだ。…その、わざわざ来てくれて嬉しい。」
運転席のジェロニモが少しうつむき加減になって小声でつぶやくのを、ハインリヒは目元をゆるめながら助手席でながめた。
ジェロニモの操るピックアップ・トラックは、空港を出発した後、舗装もされていない荒野の道をがたがたと走っている。その
地平線をさえぎるように、はるか彼方にはロッキー山脈が横たわっている。めざす先のひときわ緑の濃いあたりが二人の目的地
―つまり、ジェロニモの住まいだった。
鮮やかな青色のピックアップはジェロニモが中古を手に入れて、自分で塗り替えたものだ。古いが手入れは行き届いていて、
不快さは微塵も感じられない。ただサスペンションは極上とはいえず、タイヤが砂利をはね上げるたびに隣のハインリヒも上下
する。しかしハインリヒはふだんもっと大きなトラックを転がしているせいか、むしろくつろいだふうに助手席に収まってくれ
ているのを横目でちらと確認して、ジェロニモはひそかに安堵のため息をついた。
途中で休憩を取りながら、ピックアップがようやくジェロニモの山小屋までたどり着いた頃には、日がそろそろ傾きはじめていた。
「ここだ。入ってくれ。」
「これは…。」
ハインリヒがジェロニモに案内されたのは、すがすがしい木の香りの漂う、真新しい丸太小屋(ログハウス)だった。振り向く
ハインリヒに、ジェロニモはうなずいて見せた。それだけで、ハインリヒにはそれがジェロニモの手作りであることが伝わって
きた。ジェロニモが仕事の合間や休日にたった一人で、丸太を必要なだけ、少しづつ伐採し、切り株を開墾し、その空いた土地
をならし、一本一本積み上げて、ようやく完成したのだ。そのさまは、さながら昔の開拓者のようだった。
ジェロニモの招きで、そのログハウスに初めの一歩を踏み入れようとしたハインリヒだったが、その足がふと止まった。
「あれは…?」
ログハウスの奥に、一見馬小屋かと見まごう―実際そう使われていた―古い小さな小屋を発見したからだ。それは、今まで
ジェロニモが寝泊まりしていた小屋だった。壊すのも忍びなくてそのままにしているのだと、ジェロニモはハインリヒに説明した。
「オレはあちらでも良かったが…。」
「いや。あんなところにおまえさんを呼ぶわけにはいかない。…その、おまえさんを迎えるためにこっちを建てたのだから。」
「ジェロニモ…。」
ハインリヒは思わず、ジェロニモの腕にすり寄った。ハインリヒは自分自身を含め、モノには執着しない性質(タチ)だが、
ジェロニモのその心遣いが嬉しく、心に温かくしみわたった。
「せっかくだから…また馬でも飼うか?」
「今は重機もあるから馬は不要だが…そうだな。何か生き物がそばにいるのは良いことだ。…さぁ、入ってくれ。」
「あぁ。」
日の暮れなずむ頃、二人ぶんの影がログハウスに吸い込まれていった。
台所で素朴だが温かい手料理のもてなしを受けた後、暖炉のしつらえられた居間の床に敷かれた毛皮の上にジェロニモがあぐら
をかいて直に座り、その膝の上にジェロニモに抱かれるようにハインリヒがさらに座っていた。ジェロニモが肩から羽織った
大きな毛布が、上から二人をすっぽり包んでいる。ぱちぱちとはぜる火の粉が二人を暖かく染め上げていた。壁沿いに据え付け
られた階段をたどれば、頭上に中二階と屋根裏を兼ねたような寝室が設けられている。
満ち足りた気分でジェロニモに包まれているハインリヒの耳に、ジェロニモの静かな声が分け入ってきた。
「ここから少し行ったところに、もう一つ小屋がある…、」
独り言ともつかぬそのつぶやきは、ぽつ、ぽつと途切れがちにつむがれていく。いつも短く明確に話すジェロニモの、常とは
違う話し方にハインリヒはいぶかったが、さえぎることなく耳を傾けることにした。
ジェロニモの話に寄れば、その小屋にはとある白人の老人が住んでいた。
彼は、ジェロニモの木こりの師匠だった。弟子は取らない、後継ぎも要らないというその老人の元へジェロニモは辛抱強く通い
詰め、木こりの手ほどきを受けたのだ。ジェロニモよりもかなり小柄の、もとは金髪だったのだろうがすっかり白くなった髪に
白い髭をたくわえ、眼鏡をかけ、日焼けした皺が幾本も顔に刻まれた、頑固一徹を絵に描いたような、昔ながらの木こりだった。
昔気質(かたぎ)で仕事は盗んで覚えろとばかりに、ジェロニモに直接教えてくれることはなかったが、ジェロニモは彼の背中
を追って山へ分け入り、彼の小屋の近くに住むことにした。
ジェロニモがなんとか独り立ちできるようになり、礼を述べに行ったときも、「ふん」と一言口にしただけだったが、その瞳が
一瞬、嬉しさとも寂しさともつかぬ色を浮かべたのを、ジェロニモは今でも鮮明に覚えている。
それからは会う機会も少なくなったが、行けば無愛想ながら必ず、ジェロニモを小屋に迎え入れてくれた。その後は時折の交友
が続いていた。
ある日、ジェロニモがいつものように老人を訪ねると、老人はいなかった。気になって数日続けて行ってみたが、留守が続いた。
少し間を置いてから改めて訪ねると、そこにはジェロニモの見知らぬ若い白人の女性がいた。
「あなたが『ジェロニモ』さん?」
「そうだが…。」
「祖父の最期の言葉を、伝えに来ました。この小屋で待っていれば、あなたが来るって。祖父はこの小屋をあなたに『返す』と
言っていました。あなたに、というよりむしろあなたがたに。」
「……。」
ジェロニモと老人の間にそんな確執は一度も無かった。老人がなぜそんな遺言を自分に残したのか、その理由も分からない。
あえて考えれば、たぶん、老人にとってジェロニモは初めての≪接点≫だったのかもしれない。
ジェロニモが伝え聞く先祖の住まいはこんな西の果てではなく、もっと東の、温暖な大きな湖のほとりの、大きな森だったという。
でもそんなことはこの際、どうでも良かった。
老人の厚意はありがたいが受け取る理由も見つからず、辞退を申し出たジェロニモだったが、目の前の女性が哀しそうな様子に
なったのにいたたまれなくなり、結局それ以上言いつのれず、ジェロニモは老人の遺言を受け容れることになった。
ちょうど、といっては語弊があるかもしれないが、ハインリヒを招くにふさわしい場所を探していたときでもあったからだ。
このあたりの森は現在主要な伐採の対象にはなっておらず、よって当分、他人の踏み込む可能性は少ない。二人で静かな時間を
過ごすにはうってつけだと思われた。
そこまで話し終わると、ジェロニモは一息ついて、かたわらに置いたカップに手を伸ばし、少し冷めてしまったココアに口をつけた。
ハインリヒも黙って、ジェロニモにならって自分のカップをたぐり寄せた。ジェロニモがこんなに自分のことを話してくれるのは初め
てで、それは嬉しいことではあったが、ヨーロッパで生まれ育ったハインリヒが口出しできる話でもなかったからだ。
ハインリヒはカップを左手に持ち替え、ジェロニモの手を鋼の右手でそっとつかんだ。ジェロニモの肌はハインリヒと違ってきめは
粗いがそのぶん、しなやかで、これがあの頼もしい、爆発的な力を発揮してくれるのだ。背中を預けた安らかな心地で、ハインリヒ
は右手にやや力をこめる。
「そっちにおまえさんを招待しても良かったのだが…、」
ジェロニモが再び話しはじめたので、ハインリヒはカップを置いて右手を自らのふところにしまった。ところが、ジェロニモはその先
をなかなか話そうとしない。ついには、ハインリヒを包む手に力を入れ、ハインリヒの髪の香りをかぐように顔をうずめてきたので、
ジェロニモの話はそれきりになってしまった。ハインリヒはくすぐったそうに身じろぎしている。
ジェロニモはその後、老人から受け継いだその小屋と、ジェロニモの小屋とを含むこのあたりのわずかばかりの森の権利を、自分が
西海岸の工事現場で日雇いを渡り歩いて貯めた資金を元手に買い、このログハウスを建てたのだった。
老人の小屋に住んでも良いのだが、ジェロニモはそうはしなかった。なぜなのか、はっきりした理由はジェロニモ本人にも分からない。
古いぶんには構わないのだが一人で住むには広すぎる―きっと往時は大勢が寝泊まりしていたと思われる―こともあるし、何より老人
との思い出が多すぎるせいかもしれない。思い出は、これから新しく作るものだ。彼の冷たくて熱くて、厳しくて優しい死神とともに。
ふだんは寡黙で頑固で、でも内面は情の厚かった、あの老人を、もしもハインリヒが年老いたらあんな感じだろうかと、ふとジェロニモ
は思う。だが、それを目の前のハインリヒに言うことはない。それを見ることは永遠にかなわないからだ。それは哀しくもあり、ほんの
少し嬉しくもあった。
考えてもどうなるものでもないことは、ジェロニモは深く考えないようにしている。思えば、彼にとってはそんなことばかりの境遇
だった。それでも、与えられた運命をもすべて受け容れて、ただそこに在るのが、ジェロニモという男かもしれなかった。
ジェロニモの鼻先が首筋をかすめたので、ハインリヒの肩がびくっと小さくはね上がった。薪をたっぷり積まれた暖炉が二人を赤々と
照らしだし、背後の丸太の壁に長い影を形作っていた。
そまびと―杣人―(2012.12)
杣人とはきこりさんのことのようです。
ジェロニモが住む土地へ訪ねるハインさんは
アメリカの大地、精霊、ジェロさんに包まれて癒されるといいな。
マリ様、アップが遅れてすみません!
これからも懲りずによろしくお願いします!(いつも同じことを・・・大汗)
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