夕焼け空
                

 陽の傾き始める時刻だった。部屋へ入る光は量を減らし、壁際を這って、今にも部屋の片隅へ消え失せてしまいそうだった。
慌てて閉めたカーテンは中途半端に隙間を残して、そこから不揃いに並ぶ屋根が見える。そちら側は、仲間たちがとりあえずの居を定めた
辺りとは、真逆の方向だった。
この街の中心を少し外れて、ここはハインリヒの仮の住み処だ。いつとも定めずに突然訪れても、ハインリヒは大抵ここにいた。いなければ
イワンの傍──つまり、世話をするジェロニモがそこにいる──だ。
イワンは、主にフランソワーズとジェロニモの間を行ったり来たりして、気まぐれに、ジェットや張大人の手が差し込まれる。
イワンに手の必要のない時のジェロニモは、走り抜けるような短い時間でも、ため息の出そうな律儀さでハインリヒの許へやって来て、その
岩のような体を寄り添わせて来る。時間も場所もばらばらに、ハインリヒの傍にいて、触れられてさえいればいいとでも言うように、ドアを開けて
ハインリヒを抱きしめて、そのままくるりと踵を返すことさえあった。
ハインリヒは、ジェロニモの、刺青のない姿を見ることが滅多にない。顔を見る時にはいつもすでにうっすらとあの赤が浮かび始めていて、別れる
時には鉄でも焼いたような色になって去って行くからだ。
それを眺めて苦笑をこぼされるのに、ジェロニモはすっかり慣れてしまった。
今もジェロニモの全身には、赤い線が這うように走って、汗は乾き始めているのに一向に色は薄まらない。左の肩口の線を、ハインリヒの鉛色の
掌が撫でていた。
そろそろここから立ち去る時間だ。イワンの夕食の心配をしなければならないし、気が向けば徹夜さえ厭わないあの赤ん坊を、きちんと寝かし
つける役目がある。
冷たいシャワーを浴びて、少しでも刺青の色を落としてから行こうと、まだ霞のかかったような頭の隅でジェロニモは考えた。どうせ皆──当然
イワンも──知っているとは言っても、あまりにあからさま過ぎるから、せめてもの悪あがきだ。自分だけのせいではないと、少しだけ卑怯な
言い訳を思いつきながら、思うこととは裏腹に、ジェロニモの手はハインリヒの肩胛骨の形をなぞり続けている。
顔の向きを変えて、窓の方を見た。陽射しの色で時間を計ろうと目を細めて、そのあごへ、ハインリヒの手が伸びて来た。
「・・・このまま戻るのか?」
横に広い唇が、少し意地悪く曲がっている。何か、ジェロニモを困らせようと思いついた時の表情だ。
窓から入る陽射しからハインリヒへ視線を戻して、シャワーを浴びたいと言おうと唇を動かし掛けたところで、ハインリヒがその笑顔をぐいっと
近づけて来た。体をずり上げてのし掛かって来ると、ジェロニモの喉を覆うように掌を乗せ、なぜかそこへ力を込めながら、またにやっと笑う。
「・・・鎮めてやろうか?」
ささやく息が、唇に掛かる。ジェロニモは思わず瞬きに近く目を細めて、すかすように目の前のハインリヒを眺める。
ジェロニモの太い首を押すように、ゆっくりと掌に力が入る。そうしたところでびくともしない、ジェロニモの人工の気管だ。笑みは消さずに、
ハインリヒはジェロニモの喉に自分の喉をかぶせて来ると、代わりに、間へあった自分の掌をするりとそこから抜いた。
胸と胸、喉と喉が、触れ合って重なる。呼吸と鼓動が皮膚を震わせているのが、そうするとよく分かる。ハインリヒは喉を伸ばして、まるで動物
の親愛の表現のように、ジェロニモの喉へあごの下辺りをこすりつけた。
気管と気管を繋げて、心臓と心臓を繋げて、血管と血管を繋げて、血と酸素を分け合う様が、なぜか鮮やかに脳裏に思い浮かぶ。それが現実に
不可能ではない、サイボーグのふたりだった。
体と頭を繋いでいる首。呼吸がそこを通る。血液を送る、裂ければ簡単に致命傷になる動脈が通るそこは、まるで魂の通り途(みち)だ。心はどちら
にあるのだろう。頭か。それとも体か。命の在り処は、一体どこなのだろう。
ハインリヒの喉に触れ、ジェロニモの喉に触れている。急所を互いに晒して、それを互いに絞め合ったところで、殺す気遣いも殺される心配もない。
奇妙な、彼らの間だけで通じる、不思議な信頼。
ジェロニモは、喉と喉を触れ合わせたまま、上にいるハインリヒをそっと抱いた。
呼吸の音が、皮膚と耳から伝わる。時折、思い出したように重なる鼓動に耳を澄ませて、自分たちは生きているのだと思った。
だからこんなにも、この男が欲しくて仕方がない。触れていなければ耐えられない。触れて、あたたかさ──それが、決してほんものではないのだ
としても──を確かめずにはいられない。自分のものではない、別の誰かのあたたかい体。抱きしめて、その抱きしめる自分の腕を確かめさせて
くれる、誰かのあたたかい体。
魂の在り処は、自分では分からない。見下ろしたところですべてを見ることはできない自分の体のその内側を、眺めて見つけてくれる誰かが欲しい。
自分の中には確かに魂が存在して、だから自分は生きている人間なのだと、確かめるために、誰かが欲しい。誰かを抱きしめたい。
だからひとは、ひとに魅かれ続けるのだ。
急所を晒せる相手。自分の、歯車やねじや金属片や色とりどりのコードで組み合わされた機械の体を、ためらいもなく晒せる誰か。力の加減など
心配せずに、抱きしめられる誰か。
きっとお互いさまだ、とジェロニモは思った。同じことだ。きっとハインリヒも、同じことを考えている。触れられて、姿を見るだけで体温が
上がるのは、きっとジェロニモだけではない。
鎮めてやると言ったのは、あれはジェロニモに向かってではない。ハインリヒはきっと、自分自身に向かってもそう言っているに違いなかった。
また熱が上がる。鎮まるどころか、刺青の色はまた濃さを増し始めていた。体をぴったりと重ねて、不敵な笑みは今はやや淡く、ジェロニモの上に
憩う姿勢のまま動かないハインリヒを抱きしめたまま、ジェロニモは突然体を起こした。
もう立ち去る心積もりだったのに、そんなことはすっかり忘れ──ハインリヒのせいだ──て、またハインリヒを抱きすくめて自分の下へ敷き込む
と、ぶ厚い手をするりと下肢へ向かって滑らせる。
ハインリヒの喉が反る。白いとばかり思っていたそこに赤い影が見え、自分の刺青が写ったのかと、ばかなことを考えた。
いつの間にか、カーテンの向こうで空が赤い。熱が上がり赤く染まる体と、ジェロニモの膚の色と、そこに重なる、まだ若い夕陽の色。それを
すべて映して、ハインリヒの瞳さえ赤かった。
自分の魂の色だと、ふと思った。ハインリヒの瞳の中に小さく映る自分は、魂の在り処をそこへ示しているのだと思いついて、この男そのものが、
自分の命と魂の写し身なのだと、ジェロニモは思った。
体は、精神(こころ)の入れ物に過ぎない。そう言ったのはこの男だ。そしてジェロニモは、入れ物であるこの男の、機械の体も何もかもが、恐ろしい
ほどいとおしかった。
「・・・まだいいのか。」
往生際悪く、下からハインリヒが訊く。背中に回った腕は、ジェロニモにしがみついている。
「・・・もう少し。」
鎮めて、鎮まるには、あるだけすべてを飲み干すしかない。そして飲み干すのは、不可能に思えた。
嵐のように、身内はざわめき続けている。ジェロニモの刺青と一緒に、空も赤さを増し続けていた。





 

夕焼け空(2013.04)

うっとり黄昏時の54〜癒されたvv

この世界に浸かりたいです。はあ・・・

みの字様、ありがとうございました!
ありがたいことに捧げさせて頂いたこちらを元に、この話を頂戴しました。

幸せです。

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