「cake」
崖下から、打ちつける波と共に風が上がってくる。
肌寒いような曇天の空の下、柵も何もない切り立った崖の端に、ぼんやりと立つ長身の影が在った。今にも降り出しそうな空の下、長い間立ち続けているその影は、鮮やかな長身と赤銅色の髪もそのまま、ニビ色の空に染められてしまったようだ。
風が、閉めてある窓ガラスを静かに鳴らす。
何かを訴えるかのような音。
風の音。
曇り空。
新聞を読んでいたアルベルトは、衣擦れの音と気配とに、ふと顔を上げた。
ギルモア邸の居間の中。
庭へ向けて開かれた大きなフランス窓は今は閉められていて、風の音だけが届く。
その窓辺に立ち、庭の先、崖縁に立つ影を見つめていた女性が、スカートの裾を揺らせてアルベルトを振り返っていた。
顔を上げた事で、一瞬交わされた眼差しに、女性の視線が少し険しくなる。
先日、気乗りせずとも請われて集い、仲間達と共に出かけた現場で、船の中から先に届けられていた資料と照らし合わせながら、遠くからサーチしていた彼女の、見えないポイントの多さに苛立っていた、そのときの見ていたのと同じような眼差しを向けられて、戸惑った。
苛立つ視線を向けられて、戸惑った。
彼女の見ていたはずの、庭先の崖端に立つ影は、まだ、遠目にも立ち尽くしているのが見える。
風が微かに、窓ガラスを叩く。
立ち尽くしている人影は、鮮やかな髪の色共々、曇天の空に染められているようだ。
不意に、窓辺の女性が顎をしゃくるように庭先を示した。
「アレをどうにかしてちょうだい」
示されたのは間違いなく、崖縁に立つ影。
長身の赤毛が珍しく、曇り空に染められているような、落ち込んでいるジェット。
そのジェットを示したフランソワーズは、アルベルトとは別の意味で、ジェットとはかなり親しい。その彼女の表現するアレが、ジェットそのものではなく、曇天の空模様同様に落ち込んでいる状況を指しているのだとは分っていても、「アレ」と言われて示されて、アルベルトには面白くなかった。
「手は尽くした」
だから、少しむっとして、短く返す。
自分だとて、落ち込んでいるジェットを放っておいた訳ではなく、それなりに何とか浮上させようと接しては見たのだと、短く応える。
気乗りせずに集い、出向いた現地での、珍しくない様相過程結末の中、ジェットが少し気にかけた少年が犠牲者のひとりになった。命に別状はなかったものの、一生残る傷を負ってしまったのだ。それでも別れ際、その少年は笑ってジェットに手を振っていた。その後から、ジェットはかなり落ち込んでいる。
危険から遠ざけてやれなかったことに、守れなかったことに、それを悔やむ自分を逆に励まされてしまったことに、自分の情けなさを感じて。
それぞれの国で、仕事や自分の居場所を持つ仲間達が帰ってしまった後も、ジェットは崖縁で風に吹かれながら、同じ事を繰り返さないようにと頭の中で何度も回想し、打開のためのシミュレーションを幾重にも繰り返し重ねながら、このギルモア邸に留まっていた。
勘の鋭いジェットには、そんな作業は普段は不向きなことだったが、それでも、せざる得ない程の気持ちなのだろう。
風が打ちつける波と共に吹き上げてくる中、遠く海の上を吹いてくる中、立ち尽くし、懸命に考えている。
そしてアルベルトも、丁度仕事が切れているという事もあり、そんなジェットを放っておけず、ギルモア邸に留まっていた。
「アレで?」
フランソワーズがまた、アレと表現するのに対して、少し不快感を強く表しながら、アルベルトはまた同じように、「出来ることはした」と返した。
「全然様子は変わらないわよ。一体どんな事をしたのよ」
「・・・何でそんなことを教えなきゃならない」
詰め寄られて思わずアルベルトは、自分なりにどうにかしようと頑張ってみた様々なアプローチを一瞬思い出して、親しくしているフランソワーズ相手とは言え、とても他人に言えることじゃないと思い直し、少し赤くなって慌てて強く否定した。
その応えに、しばしじっと見つめられて、居心地が悪くなる。
全てを見透かすような瞳に見つめられて、とても言えないと思ったことまで知られてしまうようで居心地が悪く、図らずも更に不機嫌な表情になってしまう。
「・・・そう」
何をどう納得したのか、フランソワーズは溜息と共に頷いて、視線をアルベルトからまた、庭先の長身へと戻した。
「ああなっちゃうとなかなか、戻ってこないのよね。最後の手段は食べ物で釣ることなんだけど・・・」
釣る。
アレの次は釣るか!
いくらジェットのことに対しては、一目置いているフランソワーズの言葉だとは言っても、こうも失礼な表現を続けられると、アルベルトも耐え難くなってくる。対外的には大声で公表しているわけではないと自分では思っているし、自分のものなのだから寄るな触るな等とは決して態度にも表してはいないと自分では思っているアルベルトでも、さすがに、不愉快さを隠す気になれなくなる。
そんなアルベルトの気配に気付いたからどうなのか、ガラス越しにジェットの後ろ姿を眺めながら、フランソワーズが口を開く。
「だって、食べることは幸せの第一歩だって、本人も言っているし」
言われてみれば確かに、そんなことを言っていたなと、アルベルトは思い出す。育った環境からなのか何なのか、美味いものを満足に食べるということは、生き物を満たして安定させる要のひとつだと言うようなことを、昔、まだ会ったばかりの頃にジェットは言っていた。食欲など持てず、現状を受け入れることさえ困難な状態だったアルベルトに、味覚を残されていて食べるものがあるのなら、とにかく食べろと、そう言ったのだ。
「他人には、落ち込んでいるときには美味いものを食べに行くのが一番だなんて誘うくせに、自分の番になると忘れちゃうのよね」
「今朝も、コーヒーしか口にしてないし・・・」
確かに、食べていなかった。
食べる気になれないのだから、無理強いはしたくないと思っていたアルベルトだったが、思い返してみればジェットはよく自分に、気分が沈み気味なときを察してか、美味いものを食べに行こうと誘う。
・・・。
「フランソワーズ」
「なに?」
「あいつと食事に行くことがあるのか?」
「ええ。あるわよ」
「・・・」
あっさりと肯定されて、手の中の新聞を丸めそうになって、ぐっと堪える。
「ジョーとケンカしちゃったときとか、嫌な事件の後とか、そんなときにね」
庭から視線を戻され、苦笑して言われて、それ以上は不愉快な顔が出来なくなる。
それはきっと、ジェット自身が安心したくて、引き上げてやって、安堵するためなのかも知れないと、少しだけ感じて。
なのに今は、そんな事すら自分で気付けずにいる奴は、ひとりで崖の縁に立って不得手なことに没頭している。
しばらくの間をおいて、今度はアルベルトが溜息をついた。
「食うって言ったって、あいつが今食べたいと思うものなんか、思いつかん」
苦さが拭い切れない声で小さく返せば、フランソワーズもちょっと考えるような眼差しになり、ふたりでしばらく、瞬きあった。
風がまた、少しだけガラス窓を叩き、ジェットは相変わらず、曇天の空模様と同じ様を背負って立っている。
「・・・甘いものがいいわよね、きっと」
多分、懸命に今回のことをシミュレートして考えているであろうことから思いついたのか、フランソワーズがそう言う。考えると言うことは、胸が痛くとも頭脳を使うということで、脳の代謝は糖でおこなわれる。だが、ジェットは自分同様、あまり、菓子には興味がないと知っているのでそう伝えれば、可愛いお菓子じゃなくてね、と返された。
「普通のお店で売っているような可愛いお菓子じゃなくて、ちょっとパンみたいな感じの中華菓子よ。以前に船の中の食事で張々湖が作ってくれたのだけど、ジェット、凄く気に入っていたみたいだから」
張々湖の作ったパンのような菓子?
どうにも思い当たらず、アルベルトは首を傾げた。
船の中の食事と言えば大抵、様々な事件の直前、準備でバタバタしている中で出されるものだ。張々湖に一任しているのだが、菓子が出た記憶はない。食べ損ねたのか、気に止める余裕がなかったのか、または、自分が同行しなかったときのものなのかも知れない。
「ねえ、それを作ってあげたら?」
提案を差し向けられて、一瞬、言葉に詰まった。
俺が?と。
「お前が作れよ」
知りもしないものを作ってはどうかと言われ、フランソワーズは知っていて、自分は知らないジェットの好きらしきものを示されて、むっとしてそう返せば、言われた女性は軽く、両手を目の前に掲げて見せた。
「だってわたし、これだし」
薄い布の手袋に覆われた両手。
アルベルトの愛用している皮製のものとはイメージも質感も違うが、同じに手を被う少し華やかな手袋。
これもまた、ジェットの落ち込んでいる要因の一つだった。
サーチしきれないまま現場に降り、ジェットとアルベルトがフランソワーズをガードしながら偵察に進んでいたのだが、不意打ちに対処しきれず、庇いきれず、彼女は両手に火傷を負った。
生身ではないため、表層の人工皮膚の交換さえすれば済む事なのだが、メンテナンス直後でその皮膚のストックがなく、いま、博士とジョーが地下の研究所に篭って作成している状態なのだ。
ガードを引き受けておきながら守れなかったことも、ジェットを曇天の空模様の下に立たせている理由のひとつであり、一緒にいてそれを防げなかったアルベルトにとっても、避け切れなかったフランソワーズ本人にとっても、そんなジェットを何とかしたいという思いは、他の者達よりも少し、強い。
ひらひらと振られた華奢な両手に、アルベルトはその時のことを少し思い出して苦く思い、黙って目を逸らした。そして、新聞を畳んで立ち上がった。
「張々湖に頼んでみる」
小声で言えば、考えるような女性の気配に、視線だけを戻す。
「大人、忙しいから・・・」
苦笑するような声音。
フランソワーズの手を被う、少しだけ華やかな手袋の意味すること。
アルベルトも少し考えて、それからやはり、苦笑するように溜息を吐いた。
「・・・訊いてみる」
また小声で言って、それから、キッチンへと向かった。
「わたしにその余裕はないアルよ!」
キッチンで昼食の支度をしながら、ついでに自分の店の下ごしらえもしている張々湖は、一刀の元にアルベルトの頼みを切り捨てた。
確かに駄目元と思って頼んでみたのだが、こうもスッパリと断られると、流石に食い下がることもできなくなる。何せ、事件の間休んでいた飯店の再開と、フランソワーズの手が治るまでの間のギルモア邸の食事、その両方を受け持っているの現在の張々湖が、本当にこれ以上は何も引き受けられないくらい忙しいことは、傍目にもはっきりと分っていたのだから。
やっぱり駄目かと顔を顰めるアルベルトへ、張々湖は丸い身体でくるくると立ち働きながら言う。
「アルベルトが作るアルね」
言われて、やっぱり自分かと溜息を吐いた。どうにか張々湖の仕事を自分が少しでも引き受けて、その、パンのような菓子を作ってもらえないだろうかと提案したかったが、解決策は見当たらなかった。既に、掃除や洗濯などは、フランソワーズの代わりに引き受けている。夕食の支度は自分がやるかとも思ったが、ジェットの食べてくれないかも知れないものを作るのは、正直、嫌だった。
なので、もの凄いスピードで料理を進めている張々湖の側に立ったまま、うんうんと考えては見たものの、結局は思考の行き着く先に皆との意見に違いはなく、自分が作るしかないのかと肩を落とした。
見たこともないもの作る。
しかも、美味しく作らなければ成らないのだ。
気が重くないわけがない。
「アルベルトが作れば、わたしが作るよりもずっと、ジェットは喜ぶアルね」
見事な手さばきでザーサイを刻みながら、張々湖は歌うように言う。
ジェットは喜ぶ・・・。
自分の気を乗らせようとして言われているのだとは分っていたので、アルベルトはわざと嫌そうな表情を作って、それでも押さえきれずに苦笑した。
「そうは言っても、俺にはそれが何だか、全然分らないんだ」
何とか苦笑を押さえようとしながらも言えば、「マーラーガオね」と返された。
マーラーガオ?
聞き覚えのないその言葉に首を傾げていれば、「マーライコウともよばれているアルよ」とまた忙しく立ち働きながら、歌うように言葉を足された。
どうやらそれがそのパンだか菓子だかの名前らしいとは分ったが、どうにも実物がどんな物なのか分らない。
「やっぱり分らん」と首を振ると、張々湖は濡れた手の水をパッパと掃い、メモ帳を切ってペンを取った。
「中華街に行ってくるアルね!」
メモ帳には、漢字が3文字。
日本語は喋れても漢字は読めないアルベルトに、「マーラーガオ、読むヨ」とメモを押し付ける。
「いろんなお店で売ってるアルから、自分で食べて美味しいと思うのを探すアルね。そうしたらわたしに知らせるネ。作り方を教えるアル」
中華街まで行くのか?!と、怪訝そうにメモを受け取るアルベルトへ有無を言わせぬ理由を突きつけ、張々湖は再び仕事に戻った。
「作り方はちゃんと、教えるアルよ。材料はわたしが揃えておくアル。ジェットの好きなもの、アルベルトが作ればもっと美味しい。美味しいものは人を幸せにしてくれるネ」
歌うような口調がどこか楽しそうだと思い、面白がられているのかと不機嫌になりかけて、気付く。
張々湖もまた、落ち込んでいるジェットを心配していて、自分がしてやれない何かを他の者がしてくれるその手伝いが少しでもできることを、嬉しく、楽しく思っているのだと。
革手袋の指で挟んだメモを、きちんと畳んで上着のポケットへ入れた。
「わかった。じゃあ、行ってくる」
苦笑と共に言えば、ひらひらと振られる、小麦粉に化粧された丸い手。
どうやら昼食は麺のようだとその手元を見て思い、食べられないのを少しだけ、残念に思った。そして、ジェットも好きなはずだと気付き、張々湖の気遣いを嬉しく思った。
昼近くの中華街は混雑していて、修学旅行の学生や観光客に混じって、アルベルトは各店の軒先や店内に並べられている菓子を覗き込み、マーラーガオなるものを求めて歩いた。張々湖の言っていた名前に類似するカタカナ表記や、メモしてもらった漢字表記を頼りに探し回った結果、スポンジケーキの類だと知れて、少しだけ胸をなでおろした。手の込んだ華やかな形のパイ類や饅頭類でなくてよかったと思い、どんなものなのかと買い求めては食してみて、おおまかに分けて2種類あることが分った。
「大人。以前作ったのはどっちなんだ?」
行き交う人々で賑わう通りに立って、アルベルトは張々湖へとフランソワーズに借りた携帯で電話を入れる。
いくら観光地とは言え、銀髪の男がひとり、革手袋の手に持ったメモを見つめて、可愛らしいストラップのついたピンクの携帯を使って日本語で電話をしている様が、どれほど目立っているかについては全く、気付かずに。
<茶色ではないほうネ。黄色い方アルよ。向こう側の角の店で売っているのが、一番近い味アルね>
「・・・そうか。分った」
自分のレシピと一番近い店の指定までされて、アルベルトは「ははは」と小さく笑って、礼を言って電話を切った。
角の店か。
うろうろと歩きながらその店を見つけ、ワンコインで一切れを買い求めて食し、味を確かめ、それからしばらく、店先で少し考えて、どうしても作れなかったときの保険にと、ホールでひとつ、買い求めた。
風が、いっとき凪いでいた。
崖下から波音と共に上がる風も無くなり、庭に吹く風も無くなり、ジェットはやっと、顔を上げた。
さんざん考えては見たものの、フランソワーズを庇いきれなかったときの回避方法は見つからず、気にかけていた少年に、傷を負わせずには済ませられなかったのかと言うことにも、解決方法は見つからなかった。
ただ、同じことを繰り返さないよう、今回のことを忘れない、それだけだった。
フランソワーズに心配をかけないように、声を掛けられる前に邸に戻ろうと歩き出した。
どうにもできなかったことへの後悔に、体の中がいっぱいで食事をしようという気にはなれなかったが、アルベルトがしている、張々湖が自分の店へ出かける前に、皆へ用意していってくれる夕食を温める手伝いをしようかとも思って。
俯いて歩いて、居間のフランス窓を開けた。
庭の風の中には無かった、甘い香りが邸内に満ちていた。
瞬いて立ち止まり、気付いて、慌てて香りが逃げないように入ってきた大きな窓を閉める。
誰も居ない薄闇に包まれ始めた居間が、幸せそうな香りに満たされていて、どこか暖かい。
博士とジョーは研究室にいるのだろうし、イワンは眠っている。アルベルトとフランソワーズは何処だろうかと、香りに誘われるようにキッチンへと足を向けた。
「凄い! すてき!」
不意に上がった女性の声に、驚いて入り口で足を止める。
「このアツアツのところを食べるのが素敵なのよ! 冷やしてからクリームを添えても美味しいのだけど、やっぱり出来たてが最高よね!」
手袋で保護された両手を胸の前で握り締めて、興奮気味に喋り続けるフランソワーズの前には、柔らかそうな黄色いスポンジケーキのようなものがあり、その横ではアルベルトがやはりその黄色いふんわりとしたものを覗き込みながら、少しだけ苦そうな顔をしていた。
「何だ。結局、自分で食べたかっただけじゃないか」
アルベルトが飽きれたような声で言えば、フランソワーズは笑って顔を上げ、キッチンの入り口に立ち尽くしていたジェットへ嬉しそうに微笑んだ。
「でも、ジェットも大好きなのよ」
その言葉に、アルベルトが慌てて顔を上げた。
視線が合う。
言葉に詰まったような表情をして、アルベルトが逸らせた。
「・・・それ、張大人が作ったやつ?」
ジェットは自分で言ってから、張々湖はもう店へ出ている時間で、邸にはいないことを思い出す。
「アルベルトが作ったのよ!」
まるで自分が作ったかのように自慢する声に重なる、「フランスワーズが食べたいと言ったからだ」と言う声。それに対して上げられる、「あら、ジェットが好きなものだから作ったんでしょう!?」という抗議に、アルベルトがまた言葉に詰まって、少しだけ朱を上らせて横を向く。
キッチンに篭る菓子を蒸し上げた暖かい蒸気と、柔らかく甘い香り。
嬉しそうに笑う女性と、どうやら少し照れているらしい銀髪の男。
暖かい空気と、柔らかそうな感触を纏った菓子。
どう考えても出なかった答えは、急いても出るはずの無い答えで、皆に心配をかけただけのことだったと知って、気遣われていたことを知ってまた苦しく思い、そしてやっと、それだけ、自分が愛されていることを思い出し、知る。
スイーツと言えばキャンディーばかりで、暖かい柔らかな甘さなど知らなかったこども時代。だから、始めて張々湖が作ってくれたそれを、酷く美味いと感じた。
それを覚えていてくれたフランソワーズ。
それを作ってくれたアルベルト。
菓子の作り方は恐らく、張々湖の用意してくれたものだろう。
情けない自分を慰められてしまうことに腹が立って、慰められてしまうことが情けなくて、どうにか頑張れたはずだと答えを探しても、結局は何も思いつかない。それでも、そんな自分でも、暖かく包んでくれようとする存在を失念しかけていて、余裕の無かった自分を少し恥じた。
「・・・それ、いいのか?」
だから、ジェットは素直にその出来上がったばかりの菓子に眼差しを向けて、ちょっとだけ小声で訊いた。
「お前が食わなくて、誰が食べる」
先の一件で少々不貞腐れた口調のまま、アルベルトがやはりぼそぼそと返す。
フランソワーズの笑い声。
どこか痛々しい印象の強かった薄い布地の手袋が、笑う彼女の口元で華やかに映った。
「わたしにも後で食べさせてね。とっておきのダージリンティーを入れてあげるから!」
軽やかに素早くアルベルトの頬にキスをして、ふたりが驚いている間にジェットにもキスをしてキッチンから立ち去るフランスワーズ。
「フランソワーズ!」
「フラン!」
同時に上がった声に応えるように、どうやら地下の研究室へと去っていく軽やかな足音。
一時の唖然としたような沈黙に続く、気恥ずかしいような空気。
ジェットは少し考えてから手を伸ばし、まだ熱い菓子の角を摘み取った。
火傷などしはしないのに、急いで口に放り込んでみせる。
知っている、好きな味。
「すげー美味い」
本心から言えば、安堵したようなアルベルトの表情に、胸に詰まっていたものが少し融ける感覚。
今はどうにもならなくとも、同じ事は繰り返さないという思いと、決して忘れたりはしないという誓い。
もう一切れ千切って、アルベルトの口元へ差し出した。
ちょっと躊躇ってから、食べてくれる仕草が愛しくて、胸の重みがまた少し融ける。
凪が終わって、夕暮れの風が小さくガラスを叩く。
感じた味は、愛しくて暖かく、柔らかかった。
また指先で千切って食べる。
笑みが少し、零れていたらしい。
アルベルトの表情でそれを知って、また一切れ千切る。
覚えていること。
忘れないこと。
振り返る時と、幸せを感じる形。
26662を踏ませて頂いたキリリク内容は「2と6で料理に因んだお話」でした。
何とも美味しそうなお菓子のお話と、
そして・・ジェットの為に下見から頑張ったハインさんの手作りとは!
萌え〜でございます。
kiya様、贅沢なお話ご馳走様でした!
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